結局ネットに生きた功績を残すべきか?

30も後半になると色々考えたりするんだが

最近いよいよネットと自分の関わり方?について考える機会があってね。

 

今やスマホ一つあれば世界中のあらゆる情報にアクセスできて色んな人間の考え方に触れる事ができるじゃない?

 

果たしてそれが本当に良い事なのか?と。

私は思う訳でございますよ、ええ。

 

まだね、自覚無き悪意なら可愛いもんだと思うけれど。

今のネットには故意の悪意が満ち満ちているようにしか思えんのだよ。

 

そして情けない話、私はそれを取捨選択出来ないし、スルーも出来ない。

 

スルーしたつもりではあるが、イライラが溜まりに溜まっている状態が良くある。

 

果たして、その故意の悪意に晒されていくのを覚悟の上で人との繋がりを求めてネットに自分の意思を表明していく事は一体何の意味があるのかと考えてしまう訳だ。

 

文字だけで伝わる情報は時に冷徹に捉えられてしまう可能性を孕んでいる訳で。

そう捉えた人間からすれば不快な感情しか湧かないわね。

 

伝え方が稚拙な為に無駄な怒りを買い、

それでそれに対するリアクションで嫌になって世界との関係を閉ざしてしまうのが現在の私な訳なのね。

 

世界には色んな人間がいるわな。

肌の色が違う、信じる神様が違う、育った文化が違う、挙げたらキリが無い訳。

 

その中で人は所詮分かり合えないと拗ねてしまえばいいのか?

それでもわかり合おうとしなけれざならないのか?

私にはわからない。

 

自らが正しいと思い、あらゆる違いを排除して

その意思を透徹する人々が世間にはいるけれど

それは私から見れば非常に羨ましい生き方に見えるよ。

彼らは迷わない。

自らが正しいと信じ、それ以外を排除して追い詰めて勝ち誇る、その生き方。

 

そんな生き方が出来れば人生楽で仕方ないだろうさ。

私には何が正しいのかわからない。

世界は何が望みで

何をして欲しいのか?

どういう方向に皆で進みたいと思っているのか?

 

私には全くわからない。

思惑と思惑が絡み合い成立する世界のバランスの中でさらにネットを通して世界中がより密接に絡み合う。

 

声の大きな民衆の総意が世界の望む形か、

為政者が説く未来への指針か、

何が正しいのか私にはわからない。

 

ネットに生かされて

ネットに殺されて

良くも悪くも

我々は近づき過ぎたのではないか?

 

知らなくても良かった事を

知っていった結果、

見て見ぬふりが出来なくなって

その場限りで出した正しさが

世界をあらぬ方向へ導きはしないか?

 

世界とは実に馬鹿げたものだと

思わずにいられない。